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望郷エッセイ(2)

 投稿者:Rocky  投稿日:2017年11月 1日(水)07時02分24秒
返信・引用
  やがて、私の人生の旅にも農村から都市に移り住むという大転換が起こった。高校に進学するために、十五歳の少年は民家の一室を借りて自活することになったからである。
 都市と農村の暮らしの落差は大きく、同年の都会っ子が眩しく見えた。私は他人の軒下に寄宿して孤独であった。家族や村の人たちの温かい眼差しが恋しかった。海で泳ぎ、野苺を探して駆け回った野山が恋しかった。学校と四畳半の一室を時計の振子のように移動する生活を繰り返しながらも、学問という一条の光に導かれて大学の門に向かっていた。そして、大学入学とともに新たな都市に移動し、まさに「ふるさとは遠きにありて思うもの」としての想念の中での空間となった。しかし、その想念の中身は万巻の書物にしても語り尽くせるものではない。
 こんな事を思う。
 村の入り口に白い石碑がたっていた。彫りこまれた文字は消えてしまい、誰も石碑の由来を知る者はいない。しかし、石碑はその村のすべての事を知っているに違いない。耳を当ててきいてみようか。石碑の中に一人の語り部がいるかもしれない。もしもし、語り部さん、私に村のことを教えておくれ。
 また、こんな思い出。
 西部劇の幌馬車隊のように我が家は馬車に乗って畑に向かっていた。父が手綱を握り、母は父の横に座っていた。母が、くるりと背を向けて、子供たちに言った。
 「今日はみんなでがんばろうね。今日植える芋が秋にはおいしい御馳走になるんだよ。」
馬車の側で黒毛の馬に跨った兄が、「美味しい紅芋の御馳走だぞ」と大声で言った。
その、父、母、兄もみんなすでにこの世にはいない。
 その母が、いつか語ってくれた小高い森の事を思い出す。子供の頃、「おっぱい山」と呼んでいた。こんな話である。
 ある日、大男が二つのもっこに土を盛って運んでいた。大男は小石に躓いて肩のもっこを放り投げてしまった。もっこからこぼれた土がそのままあのおっぱい山になったんだよ。
また、母の思い出。月が煌煌と照っている白く光った夜道に親子の二つの人影。
「月がきれいだね」と母の声。
「お月さまは私たちを見ているのかな。」と子の声。
「きっと見ているよ」と母の声。
月明かりの道は別世界のようだ。
「私たち四人だね」と子の声。
「そうだね」と母の声。
 ラジオの音が初めて我が家に聞こえた日のこと。壁にとりつけた小さな箱から人間の声や音楽が流れてきた。
「親子ラジオだよ」
顔のない人が我が家に住みついている、と思った。昭和二十八年頃の村の風景である。
 いま振り返ってみると、あの十五歳の時の離郷が今日の自分に繋がっていることをしみじみと思う。
 
 

望郷エッセイ(1)

 投稿者:Rocky  投稿日:2017年11月 1日(水)07時01分1秒
返信・引用 編集済
  パタ、パタ。母の背で聞いたか、あるいは夢の中で聞いていたのか判然としない幼少の頃の記憶の中に、その日闇の中を村の共同壕に走っていた家族の情景がある。三歳頃だとすれば昭和十八年のことであろう。その壕は父の実家の畑の地下に掘られ、親族一同が危急の際に難を逃れていたと思われる。
 沖縄本島から南に約290キロ下った宮古島の東部に位置する小さな農村、それが私の故郷である。
 母の胎内で、やがて始まる太平洋戦争の戦雲を感じていたはずである。私の誕生から五年後に日本は敗戦を迎えたが、後年、母は「五人の子供が全員兵隊にとられるかと思うと生きた心地がしなかった」と振り返っている。子供全員を男の子に持った母親にとって、男子=徴兵という図式が頭の中に刷り込まれていたのだろうか。長男は島の一角に日本軍が作り始めた飛行場の作業に徴用されただけで、銃を担いで戦地に行くことはなかった。
 ラジオも新聞も無い村では、いつ戦争が終わったのか(子どもの感覚では)知らないままに時が過ぎ、私が戦争が終わったことを実感したのは、家族も寝静まりかけたある日の夜。扉をたたく音に両親が驚いて,戸を開けて外に飛び出して奇声をあげ、母がわんわん泣き出した場面を目にした時である。戦場から従兄が無事に帰還したのである。
 戦争末期の状況は、沖縄本島と宮古島、宮古島の中でも都市部と農村では人々の戦争との関わり様には大きな違いがあったように思う。米兵が上陸し、直接地上戦を経験した沖縄本島では20余万人の人命が失われたが、宮古島では都市部で台湾や本土に集団疎開した人々はいたものの、農村では疎開で慌てふためく人々の姿を見たことはなかった。もちろん、宮古島が戦火と無縁であったわけではない。目立った公共建築物は敵機の標的になった。いくつかの日本軍の部隊が配置され、臨戦態勢は敷かれていたと言う。
 とまれ、戦争は終り、私のはだしの少年時代が始まる。小学校の片隅に張った緑の天幕の中で幼稚園を過ごし、学年が始まると、焼け残った校舎や学校の近くの松林の中の青空教室で空を仰ぎながら授業を受けた。しかし、学校生活は満ち足りたものだった。教師の多くが、村の若い「お兄ちゃん」や「お姉ちゃん」で、彼らは教員養成所を終ったばかりの速成の「先生」で、戦後の村の再生の希望に燃えていた。
今日の学校風景からすれば、小学校から中学校にかけた九年間の学校という舞台、そこに登場する生徒という役者は想像を絶するドラマを演じていたように思う。
 農家の子供たちは、村の労働人口に組み込まれ、学校から帰宅すると急いで家族の働く畑に「出勤」しなくてはならなかった。夏休みのような長期休暇には朝から日暮れまで家族と一緒に働かなくてはならない。家には農耕用の馬や乳を得るための山羊を多く飼っていたから、これらの家畜の餌の獲得は子供が引き受けることになる。畑は自給自足の食料品を生産するだけのもので、牧草地のような余剰な土地はないから、家畜の餌は自然の原野を彷徨って適当に野草を刈りて来なくてはならない。どうにか適量の餌を手に入れて、馬の背に積んで夜道を急ぎながら、闇の中の魑魅魍魎に怯え、馬の手綱をしっかり握っているときは、馬が唯一の味方であり、一種の連帯感を感じたものだった。
 屋敷の中に独立した厩舎があって、馬や山羊が共存し、別の小屋には豚が数頭飼われていた。
これらの動物たちは人間に飼われているというより、部屋をあてがわれて住んでいるという感覚に近かったのかもしれない。屋敷の中の人畜共同体の住人(畜)たちは各々が役割を担い仲良く暮らしていた。馬は農耕の良きパートナーであり、山羊や鶏は大切な栄養源の供給者であった。豚は身を挺して食肉となり人間の生命を守るという自覚?があったかどうか。
 サトウキビの収穫やその製糖のような大掛かりな農作業は親族を中心とした村人たちの共同作業でなされた。その作業が一段落つくと、夜は宴会となり、月明かりの中で高らかな声が飛び交い、三味線の音が夜気に溶けていった。その共同作業を通して、村人たちの絆は深く、子供たちに対しても誰彼の別なく、温かい眼差しを注いでいた。

 

夏の思い出

 投稿者:Rocky  投稿日:2017年10月31日(火)19時31分11秒
返信・引用 編集済
  下の絵は夏にふるさとに帰省した時に描いたもの。岩に打ち寄せる波が静かに語りかけているかのようだった。  

絵画展

 投稿者:Rocky  投稿日:2017年10月31日(火)19時27分56秒
返信・引用 編集済
  今年も恒例の秋の油彩展に参加した。自信はなかったが、発信したいメッセージがあった。沖縄の辺野古に米軍の新基地建設を阻止しようとする日米政府と闘う民衆の姿を示したかった。3つの中で中央の作品がそれである。  

退職記念

 投稿者:Rocky  投稿日:2017年10月31日(火)08時18分40秒
返信・引用 編集済
  早いもので、退職してから6年余になる。その時発行した「退職記念論文集」も色褪せてしまった。手に取ってみると懐かしい。わが人生の断片が綴ってある。  

書評

 投稿者:Rocky  投稿日:2017年10月29日(日)20時05分50秒
返信・引用
  書評(1975) 「沖縄?開発の光と影」(兼島清、大日本図書)

遠い昔書いた書評もどきの望郷記が見つかって懐かしかった。「ふるさとよ、君枯れたまうことなかれ」と題をつけてある。我が故郷,沖縄はあれからどんな歩みをしてきたか。光あり、影ありだが、みんな頑張っている。

              ふるさとよ、君枯れたまうことなかれ

琉球大学の兼島清教授の近著「沖縄?開発の光と影」(環境化学ライブラリー(9)、大日本図書、昭和49年10月発行)を読んだ。この書は、著者の豊富な分析化学の知識に基づいて、沖縄の環境汚染の実態を、沿岸の海水、那覇市を中心とした市街地内の河川、さらに空気中の浮遊粉塵に至るまで、緻密な実験資料を示しながら、ありありと描き、那覇市内の汚染状況が実に凄まじいものであることを感じさせる。さらに、離島まで足を伸ばして過疎地の悲哀を切々と訴え、開発の名の下に沖縄のあるべき姿を破壊していく石油基地や海洋博という華やかな国家行事の虚像を浮き彫りにする。
 光は無く、影に覆われた郷土沖縄。これが私の読後感でもあり、ほんとうにそうなのだろうかと信じられないような悲しさと、傍観者にしかなり得ぬ後ろめたさが残る。
 私が沖縄を出たのは1971年の春であったが、私の脳裏には、まだ昨日のことのように沖縄西海岸の海の青さが焼き付いている。もちろん、その頃から、たとえば名護湾の汚染の模様は新聞紙上でのルボに表れており、その頃読んだ記事の記憶をたどってみても、事態はまだ警鐘という感じだった。しかし、4年後の沖縄の変わり様は想像を超えるものであることをこの書物は教えてくれる。
 本書の記述が単なるジャーナリスティックな報告ではなく、専門的なデータと冷静な判断に加えて、郷土愛に満ちていることが読む者をいやがうえにも寒々とした沖縄の現実に引き合わせるのである。
 東京の国電の車内広告や新聞紙上で、はやくも沖縄が「売り」に出され始めた1972年頃は新聞の不動産広告がやたらに目についたものだったが、風の便りで、宮古島にある私の郷里城辺の公有地が当時の為政者によって本土の土地ブローカーの手に渡ったことを知った時には、胸が張り裂ける思いがした。
 生まれ落ちてから島をでるまでの10数年間、まるで自分の庭のように慣れ親しんだ金白の砂丘や、汚れを知らぬ青い海原が、自然の美しさ、優しさ、尊さを知らない都会の、しかも、手に入れるまではその名さえも知らなかったであろう遠いヤマトの成金の手に落ちていったかと思うと言い尽くせない怒りと悲しみが湧いて来てならなかった。それはちょうど野や畑で一緒に汗にまみれ、また家族のような親しさで戯れ遊んだ愛馬が、ある日突然見知らぬ人の手に売られていった少年時代の悲しみに似ている。
 え? そうです。そんな子供の戯れ事では生きていけない沖縄の現実の厳しさを知らない私ではありません。沖縄、特に宮古島の農業の不幸なありさまは私も知り過ぎるぐらい知っているのです。台風に舐め尽くされた畑に佇んで、歯をくいしばって天を仰いでいた亡き父の姿は忘れることのできない一枚の絵。しかし、それでも土を愛し、痩せた畑にしがみついて、時には自然と戦い、そして豊作の春秋にはその同じ自然に感謝の歌を捧げていた父??もう生きてはいない。血に飢えたジャングルの猛獣に食いちぎられたかのように、優しい海原の衣を汚され、人々の命を育む泉である緑の山河を剥ぎ取られて疲れきった母なるこの島の悲しみを知らずにこの世を去った父は幸福だったかも。
 もう私には帰るふるさとの山河は無いのだろうか。私の思い出を大切に温めてくれた海や川や林道には、「立ち入り禁止」の白い札が立っているのだろうか。ふるさとよ、悲しかろう。辛かろう。でも、じっと耐えてほしい。私の愛を忘れないでほしい。ふるさとよ、君枯れたまうことなかれ。
?
 

書評

 投稿者:Rocky  投稿日:2017年10月29日(日)15時38分33秒
返信・引用
  米国オレゴン州ポートランド市に住む平敷和美氏(名護市、旧羽地村出身)がOjo De La Selva Press社から英文の詩集を上梓した。Fireweed Blossoms がそのタイトルである。出版のきっかけは、同氏がコミュニティ・カレッジで受講した詩のワークショップの先生との出会いだという。スタンフォード大学とコロンビア大学で学んだポートランド在住の若い、マヤの血を引く同講師は、当地の詩人仲間で指導的な活動をしている。マヤ文明の深さをしのばせる神秘的な詩集Swarm Queen’s Crownの著者として知られている。平敷氏が提出した作品を読んで感動し、熱心に出版を勧めたばかりでなく、自ら出版先を求めて交渉したり、資料や情報を集めたりしてくれた。その結果、ポートランド市をベースに活動している地域芸術文化評議会が出版のためのグラントを出してくれることになった。同評議会は、文学作品ばかりでなく、舞台、映画、音楽、地域文化活動などの幅広い範囲で資金援助を行っている団体である。今年87歳の平敷氏は若い時に上京して苦学をしながら慶応大学を修了したあとで、結婚し、夫婦で米国に移住、アラスカで翻訳業や日本語教師をしながら異国での数奇な経験をし、現在は米国でももっとも住みたいと好評のあるオレゴン州ポートラン市に住みながら専門の言語学の論文を書き続けている奇特な現役学者である。言語学のほか、日本語教育の著書や米国人対象の教科書、英文の小説「嘉手納物語」の著作もある。
この度上梓された詩集には、アラスカ、オレゴン、日本本土、沖縄で生きてきた自分史を振り返りながら、全体で51編の長・短詩を収め、それぞれの詩がそれぞれの土地で生きて関わってきた自然や人々を詩情豊かな言葉で紡ぎ取って、時間、場所が国や時を超えて読者にも共感を呼ぶ。作者の周辺の日常を選び抜かれた言葉と比喩で捉えた詩情が読者の想像力を駆り立て、評者の一人、Yearingの著者Lo Kwa Mei-enも言うように、「再読するのが待てない」という余韻を残すのである。本の表題にもなったFireweed Blossomsは、その代表的な作品の一つであろうか。
ちなみに、11月には2回にわたってポートランド市の博物館や美術館で詩の朗読会があり、平敷氏の作品も読まれることになっている。

 

俳句(28)

 投稿者:Rocky  投稿日:2017年10月29日(日)15時32分48秒
返信・引用
  平成二十九年十月

154 コスモスは彼の世の君の季の便り
155 コスモスの命継がむと紙に押し
156 秋さくら帰国娘と立ち止まり
157 街道にコスモス揺れて君想ふ
158 今はなきコスモス原に人家建ち
 

俳句(27)

 投稿者:Rocky  投稿日:2017年10月29日(日)15時31分32秒
返信・引用
  平成二十九年九月

147 遠き日の露踏み行けりはだしの子
148 ふるさとを運びて来たり夏野球
149 耳鳴りとコラボもゆかし虫の声
150 虫の音やベッドの上の子守歌
151 ジムを出て夕風頬に秋めきり
152帰省子は異国の香り連れて来し
153独り居の十年となり秋の虹
 

俳句(26)

 投稿者:Rocky  投稿日:2017年10月29日(日)15時30分15秒
返信・引用
  平成二十九年八月

142 さるすべり逢いにきたよと撫でてをり
143 百日紅共に見た日を思ひけり
144 教え子の便りも久し百日紅
145 夏旅のミニ同期会ふるさとへ
146 夏見舞男やもめに里の味
 

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